「組長さん、やはり戻らなかったんだ」
朝食の準備をしながら、携帯を切ったばかりの黒瀬に潤が尋ねた。
「そうみたい。しつこいね、橋爪も」
「時枝さんに知らせるの?」
「ふふ、どうしようかな。潤はどう思う?」
「組長さんが帰宅しないことの説明、難しいと思う。それに、命狙われるなら…、時枝さん本人が知っていた方がいいとは思うけど…」
「けど、時枝が傷付くんじゃないか心配?」
うん、と頷きながら、オムレツを盛ったプレートを潤が黒瀬の前に出す。
「あぁ、いい香り。潤の手料理は、どんな高級レストランのディナーよりも私の食欲をそそるよ。ふふ、食欲じゃないものもそそるけど。潤の細い指が、食材を触ったかと思うと」
「毎晩、食材じゃないのも触ってるけど? 朝から欲情してくれるのはとても嬉しいけど…」
「時枝と兄さんとお猿のことが気になる?」
「気になるというか…、心配。これからどうなるんだろうかって」
潤が席に着きながら溜息交じりに言うと、黒瀬が潤の手に自分の手を重ねた。
「潤は、優しいね。ふふ、もう、時枝は何を知らされてもこれ以上は傷付かないから大丈夫。私と違って、そこまで繊細な男じゃないから」
潤以外の者がいたら、きっと皆、『私と違って』の部分で、「え?」と思っただろう。
内心で「誰が繊細だって?」とツッコミを入れるに違いない。
だが、今此所にいるのは潤だけだ。
「…そうだよね。時枝さんだもんね。あれだけいろんな目に遭えば、今更、組長さんが橋爪に戻ったと聞いたところで、哀しむことはないかも知れない」
「ふふ。そうだよ。可愛い秘書さん、私の午前のスケジュールは変更がきくかな?」
「はい、社長。社内会議ですので調整できます。――本宅へ、行かれますか?」
背筋を伸ばして、潤が秘書の顔になる。
「同行してくれるかな?」
「はい、お伴させて頂きます」
「有能な秘書が側にいて助かるよ。ふふ、スケジュールの無理も聞いてもらえるし」
「ありがとうございます」
潤が秘書の顔を続けるので、黒瀬が吹き出した。
「ふふ。秘書の熱い眼差しもいいけど、朝食は、可愛い潤と食べたいな。もちろん、潤も食べたいけどね」
「黒瀬、…嬉しいけど、冷める前に食べよう」
「そうだね。頂きます」
と、黒瀬がオムレツを食べるより先に潤の唇をチュッと頂く。
「最初にデザートからも悪くない」
「んもう、黒瀬。…俺、ホント、幸せだ」
「私もだよ。…本宅行く前に、ちょっとだけ潤を食べてもいいかな?」
「ちょっと? いいよ、いっぱい食べても」
潤の顔は、既に桃色に染まっていた。
一時間後、二人は本宅へ向けて出発した。
「ゴリラ、いる?」
「佐々木さん、潤です。開けて下さいっ!」
本宅敷地内にある佐々木宅の玄関先で、黒瀬と潤が佐々木を呼ぶ。
中から慌てて掛けてくる佐々木のスリッパの音が聞こえた。
そして、土間で蹴躓いて、ドアで頭を激しく打ち付けた音も。
気を失ったのか、ドサッという音を最後に静かになり、そして玄関が開く気配はなかった。
「…死んじゃった?」
「かもね」
「どうしよう…、開けないと…」
「放って置けばいいじゃない」
「だって、生きてるなら、急いで救急車呼ばないと。死んでるならこのままだと腐敗するよ」
「ふふ、潤は優しいね」
潤の言葉のどこに優しさが含まれていたのかは疑問だが、倒れているであろう佐々木を放置したままというのは、確かにマズイ。
理由はもちろん、潤の言葉通りだ。
「じゃあ、誰かに開けさせよう。時枝の所にはゴリラ抜きで、行こう」
「途中に、誰かいるよね」
ダイダイのことを心配していた佐々木も同行させようと考え、本宅に直接上がらず、佐々木宅から先に訪問したのだが、結果、二人きりで会うことにした。