その男、激情!59

「もっと楽しい顔をしたらどうです?」

運転中の黒瀬が、橋爪を一瞥した。
橋爪が、手錠をかけられた手で拳銃を弄っている。

「その銃に弾は一つですから、私に使用することは考えない方がお利口さんですよ。もっと嬉しそうな顔をしてくれもいいと思いますが」

服を与えられたかと思うと、銃まで持たされ、橋爪は黒瀬の車に乗せられた。
行き先は時枝の所だと言われ、どうなっているんだと、橋爪は黒瀬の意図がはかれずにいた。

「楽しくも嬉しくもない」
「どうして? 時枝を殺すチャンス到来ですよ? 早く仕事終えて、台湾に戻りたいんじゃないんですか、橋爪さん? いや、劉(りゅう)さん」
「…お前、どうしてその名前を」
「どうして? そんなもの、偽名の出所を掴めばあっという間に分りますよ。あなた、私のバッグに誰が付いているのか、李に知らされてないのですか?」
「…李、お前そこまで…」

コイツは何者だ?
起業家で桐生の関係者以外に何があるって言うんだ? 
俺の知っていることは、ネットで調べた事と実際コイツから得た情報だけだ。
勝手に兄と呼んだり、髪を切ったり、犬を使ってあんな行為を仕掛ける変態ってだけでも殺してやりたいぐらいなのに、まだ何かあるのか?
あるんだ。
普通なら、俺から李に辿り着くはずがない。

「李も、あなたに時枝を殺させようとするところが…。自分で三年前のバッグに自分がいたとバラしているような低脳さに、頭痛を覚えますけど」
「…お前、一体…何者なんだ」

唸るような低音で、橋爪が黒瀬に訊いた。

「あなたの異母兄弟だと言ったでしょ。兄さん。ちなみに私の実の母親は、香港では有名人ですよ。緑龍の女帝と言えば、過去の記憶がないあなたでも分るでしょ?」
「バカな…」

緑龍の女帝?
あのグリーンを裏で牛耳っている、恐ろしい女のことか?
アジアの裏社会で知らない者がいたら、モグリだ。
世の中には決して人間が立ち入ってはいけない領域というのがあるが…黒い社会で生きるなら、まさに彼女がそれだ。
人を惑わす美貌と、逆鱗に触れたら組織だけでなく真っ当な暮らしをしている親戚縁者まで皆殺しにするほどの残忍さ、そして、五十を過ぎた年で跡継ぎを生み落としたという魔女のような女。
噂なのか真実なのか…とにかくグリーンの裏には彼女あり、というのが周知の事実だ。
そんな女がこの男の母親だと?

「ふふ、彼女は、元々桐生の姐さんだったわけです。あなたの実母が死んだ後、桐生の後妻に入り、その後、香港から来た若者と駆け落ちして、香港に渡ったんです。あなたと時枝の初恋の女性でもあるんですけどね」

橋爪の耳に、時枝の初恋の女性までは届いてなかった。
黒瀬の実母が緑龍の女帝だという驚愕の事実。
自分が想像していた以上に、とんでもない仕事を李から依頼されていた事実に恐怖を覚えた。
李からの直接の依頼は時枝だったが、きっとその周囲が香港まで通じていることを彼は知っていたに違いない。

「…いざとなったら、俺の口を封じれば自分に害は及ばないとでも、思ったか…あのタヌキめ」
「少し賢くなってきました? でも、時枝を殺さないと、あなた、どちらにしても消されますよね。仕事をしくじった殺し屋なんて、末路は憐れなものでしょうから。イロイロと知り尽くしているでしょうし…ふふ」
「楽しそうだな。俺に時枝を殺させていいのか? お前にメリットはないだろ。どうして、俺をターゲットに会わせようとする」

李や緑龍の話を訊かされても、時枝を殺すチャンスを与えようとする黒瀬の意図は分らないままだ。

「あ、そこでしたか、気になる所は。時枝本人が、あなたに会いたいと言うので。殺されたいみたいですよ、あなたに。ふふ、時枝も誰かさんが何年も放っておくから、究極のマゾヒストになってしまった。ちゃんと、責任を取ってあげないと」
「…お前も、あの堅物そうな男も、みんなオカシイ。…イカレてる」
「一番イカレているのは、似合わない殺し屋などに身を堕としたあなたでしょ? 殺し屋バーサス桐生のトップ。勝利の女神はどちらに微笑むのでしょうね」

楽しそうにハンドルを握る黒瀬。
全てがこの男の掌中で進んでいるようで面白くない。 
時枝の息の根を今更止めたところで、この先、仕事の依頼は来ないだろう。
それ以上に、李の出方が気になる。
だが、ターゲットを生かしておくわけにはいかない。 
依頼を全うできない殺し屋の末路など知れている。 
逃亡生活が待っているだけだ。
負傷した人間を仕留めるなど、殺し屋じゃなくとも出来る。
邪魔さえ入らなければ、一発で十分だ。
しかし…。

『お前、本当に撃たせる気があるのか?』

橋爪は無言で黒瀬を見た。

「着きましたよ。行きましょう、橋爪さん」

銃を上着の内側に隠した橋爪と黒瀬は、二人並んで時枝の病室に向った。