その男、激情!42

本気なのか?
黒瀬の冷たく笑う視線に、橋爪は本心が読めない。  
先程はあった潤の制止も入らない。
ベッドに飛ぶ血は勘弁だが、床と壁に血が飛ぶのは構わない、という事なのだろう。
緊迫した空気が、橋爪と黒瀬――二人の間に流れた。

「黒瀬、ちょっと近すぎない? もう五十センチ程離れて。じゃないと」

なんだ、この若いの?
黒瀬に指図できる程、銃にこなれているようには見えない。
それに、距離は関係ないだろ。
どのみち、この距離から五十センチ離れたとしても、俺の血と脳味噌が壁を汚す。
橋爪は、潤の意図が分からなかったが、自分を殺すことには同意らしいと、納得した。

「黒瀬、さっさとヤッて」
「いいね、潤の口から『ヤッて』って。ゾクゾクと興奮してしまう。ふふ、兄さん、最後に何か言いたい事は?」
「あるかっ! サッサとやれ。別にこの世に未練はない。俺が死んで泣くヤツもいないしな…」

あ、一人はいるか。
李の息子。
あの少年だけは、俺の死を哀しんでくれるかも知れないが…彼の耳に俺の死など届くはずもない…。

「いますよ。残念ながら」

ふふ、と意味ありげな笑みを黒瀬が浮かべる。

「黒瀬、早くっ! 早くみたいっ!」

只者じゃないのは、黒瀬だけかと思ったら、何だ、こいつ。
人が殺されるがそんなに見たいのか?
橋爪が、潤を睨んだ。
潤は視線に怯えることなく、「うわ、久しぶりに見るその目」とバカにしたように戯けた。

「いい夢を」

黒瀬がトリガーに指をかけ、引いた。

『俺の人生って…一体…、』

人は死ぬ瞬間、何を思うのだろう。
走馬燈のように過去を映像で見るのか…
ふん、過去のない男が何を言ってるんだ。
一秒にも満たない時間、橋爪は自分の人生を振り返ろうとし、振り返る過去がないことを痛烈に感じた。
そして、額に衝撃が走り……短いとは言い難いが、長いとも言えない人生の幕が下りた、―――はずだった。
パン、パンと、いう消音の銃とは違う派手な音が耳に届く。
地獄というのは騒がしい出向かえをする場所なのか、とすっかりあの世で魂だけの存在になったつもりで、橋爪は目を開けた。

「は? 」
「お帰りなさ~~~いっ!」

パンパンと派手な音が、また響く。

「……て、テメェラァアアアアッ!」

あの世でも地獄でもなく、橋爪はこの世にいた。
地の底から湧出たような怒り心頭で身体を震わせ大声で叫んだ。
それも仕方がないだろう。
この状況で冷静にいられるのは、かなりの徳を積んだ僧侶ぐらいなものだろう。
撃たれたはずの橋爪の額には、弾の貫通した穴はなく、代わりに何かが貼り付いていた。
そこから、黒瀬が持っている銃へ伸びた一本のヒモ。そのヒモには

『お帰りなさい、組長さん! 熱烈大歓迎♪』

と書かれた垂れ幕が下がっている。
銃に実弾は入ってなく、橋爪の額に飛んで来たのは、このふざけた垂れ幕付きのヒモを固定する吸盤だったのだ。
そして、遅れて聞こえてきたのは、潤が鳴らしたクラッカーだったらしい。
床に紙で出来たリボンが散らかっていた。

「どう、私の腕は?」
「凄いよ、黒瀬。見事に額のど真ん中」

二人とも、一仕事終えたと満足そうだった。

「いい加減にしろっ!」

これ程バカにされたことなどない。
ないはずだ。
ほとんどが欠落したままの過去だが、人に蔑まれた時に感じる感情は、頭の片隅に残っているはずだ。
手錠を掛けられ後頭部に置いていた手を頭部を越え前に持ってくると、額に貼り付いた吸盤を床に叩きつけるように落とした。
黒瀬を殴るか蹴るかしないと気が済まない。
手錠を掛けられたぐらいで、怯む橋爪ではない。
相手が銃を持っていたから、言いなりになっていただけのこと。
その銃が、ふざけた玩具だったのだ。