橋爪(はしづめ) 飛翔(ひしよう)。
自分の顔が刷り込まれた他人名義のパスポート。
本籍は大阪になっている。
実在していた人物で、多分戸籍もあるのだろう。
今日からこれが自分の名前だと東京行きの飛行機の中で 劉(りゅう)は頭に刻み込む。
「日本か…」
そこで、俺は自分の過去と対面するのだろうか?
過去を覚えていないのは、きっとろくでもない生活を送っていたからに違いないと劉(りゅう)、いや、橋爪は思っている。
身体に残る銃創(じゅうそう)、人を殺める事が容易な腕。
そして、いつも橋爪を覆う深く暗い喪失感。
とても大事な何かを、絶対に忘れてはならない何かを、忘れてしまった気がする。
「仕事をするだけさ」
自分探しの旅に出向いているわけじゃない、と自嘲気味に橋爪が笑う。
胸から写真を取り出し、ターゲットの顔と名前を確認する。
『桐生組 組長 時枝勝貴』
「この顔で、組長とはね。神経質そうなジャパニーズビジネスマンにしか見えないが」
こいつの命もあと数日か。
こいつだって、組を張るぐらいだから、俺同様、人を殺めてきてるだろうよ。
同情は無用だな。
同じ穴のムジナって所か。
胸に写真をしまう。
飛行機の高度が下がり始め、眼下に街が見えてきた。
そろそろか。
静かに目を閉じ、着陸を待った。
***
「社長、そろそろお時間です」
株式会社クロセ、社長室。
秘書が仕事終わりを告げに来た。
今日はこの後、社長と秘書二人揃って、とある場所へ招かれている。
「もう、そんな時間か。では、仕事区切りのいつものアレを頼む」
マフォガニーのデスクで、英字新聞を広げていたこの部屋の主が、新聞を畳み、入って来た秘書へ視線を移す。
「アレですね。畏(かしこ)まりました」
ツカツカツカと、秘書が社長の側に寄る。
「今日は、どちらにいたしましょう? 上ですか、下ですか? どちらでもお好きな方をどうぞ」
「そうだね、下がいいかな? この後直ぐにできないから、溜まったモノを片付けたい」
「お任せを。では、失礼します」
社長が椅子を少し回転させると、秘書が跪き、社長の太腿に両手を置き社長を見上げた。
「苦しそうですね」
「しょうがないだろ。私の秘書はセクシーだからね。一緒に仕事をしていると、この時間には押し倒したくなるほど溜まる。責任を取ってもらわないとね」
「セクシーかどうかは分りませんが、それが私のことなら、光栄です…社長」
秘書の手が、座っている社長のファスナーに掛かる。
少し降ろした所で、社長の手が秘書の手を止めた。
「手じゃなくて、歯で噛んで降ろして欲しいな」
「はい、社長」
秘書が器用に口でファスナーを降ろす。
その際、上目使いで社長の顔を見上げることを忘れなかった。
その顔が社長を煽ることを、この秘書は心得ていた。