「社長、携帯が鳴ってます」
まだ、黒瀬と潤は社内にいた。
会議が終わった直後で、社長室に戻る途中だった。
「ありがとう」
潤が預かっていた黒瀬の携帯を手渡す。
「佐々木からか」
黒瀬が一瞬ニヤッと笑みを浮かべ、携帯に出る。
「…あ、そう。じゃあ、先に着いてるかもしれないね。…まだ会社だけど。その様子じゃ、時間見てないよね…八時、て書いてたのに。ふふふ、兄さん、多分週末本宅には戻れないから…佐々木、あとを頼むよ…」
黒瀬が携帯を閉じると、潤が、組長さんのことかと、興味津々の目を向けた。
「招待状見て、事務所を飛び出したみたい。今頃もう、マンションに着いていると思うよ。私達も急ごう」
黒瀬がコートを羽織り、帰り支度を始めた。
「時枝さん、まだ夕飯の準備終わってないんじゃない?」
潤が終わったばかりの会議の資料を重要度別に仕分けし、キャビネットと黒瀬の鞄に入れていく。
「食事も兼ねての招待のつもりだったけど、兄さんそれどころではないみたいだよ」
「きっと、驚いたよね。犬を克服している時枝さんの姿を見て、感動してたりして」
「それがね、怒っているみたい。佐々木の短刀奪って出て行ったみたいだから」
動いていた潤の手が止る。
「黒瀬ッ! 早く帰ろうっ! 時枝さんとユウイチが心配だ」
「大丈夫。多分兄さんが怒っているの、私にだから。今頃、時枝に出迎えられて、拍子抜けしているんじゃない?」
「…どうして、黒瀬に怒るんだよ。短刀って、黒瀬を刺すつもりかよ……もしもの時は、俺が黒瀬守るからな」
「ふふ、ありがとう。でも、大丈夫だよ。それより、今夜は楽しい事が起りそうな予感がするよ。潤も早く帰り支度をしておいで」
楽観的な黒瀬とは裏腹に、潤は本当に大丈夫かなと、不安で一杯だった。
時枝は黒瀬宅のキッチンで天ぷらを揚げていた。
勇一が来るかもしれないと、勇一の好物の天ぷらを大皿に盛っていく。
来ない場合を考えて個別には盛らず、人数の調整がきくように、一つの皿に揚げた天ぷらを盛る。
海老にナスにサツマイモにシシトウに椎茸にイカにササミに…とかなりの種類だ。
八時と聞いていた。
まだまだ時間はあるが、落ち着かない時枝は料理に没頭していた。
時枝宅から付いて来たユウイチは、リビングの床に敷かれたラグの上で寝ている。
子犬だけあって、一旦寝るとなかなか起きない。
インターフォンが鳴ったので、火を止め、出た。
モニターに映っていたのは、勇一の逆上した顔だった。
『武史、コノヤロ―ッ、開けろっ!』
「勇一、大声を出すな。社長はまだ戻っていない」
『…え……、勝貴か……お前…武史の所で何をやってるんだ』
少しだけ、トーンが下がる。
「何って、夕飯の準備だ。勇一の分も用意してあるから、怒るな」
『空腹で、怒っている訳じゃないっ』
「じゃあ、なんでだ? 招待状か?」
他に怒る理由がないだろう。
さすがに喜ぶとは思わなかったが、ここまで逆上するとも時枝は思っていなかった。
『……お前…アレ…どういう事だっ!』
思い出したように、また勇一の声が大きくなる。
「どういうって、インターフォン越しに話すことじゃない。解錠したから、さっさと上がって来い」
どんな顔をして会えばいいのかと緊張していた時枝だったが、当の勇一が憤怒している為、変な緊張は溶けた。
それよりも怒り心頭の勇一を、どう宥めようかとそちらに気が向う。
「…勇一、久しぶり」
一週間と少ししかまだ経ってないというのに、半年振りぐらいに感じた。
すぐに触れたい衝動に駆られたが、勇一の怒りのオーラが強くて近寄れなかった。
「……勝貴、脚の具合はどうだ?」
「…皮膚は攣ってるが、歩くのに支障はない」
「…来い」
手首を掴まれ、引き摺られていく。
「勇一、痛い。…駄目だ、そっちは」
ユウイチが寝ているリビングの方へ行こうとするので、勝貴が慌てて止めた。
「武史達はいなんだろ。聞きたいことがある」
「だから、そこには……」
犬の優れた嗅覚と聴覚で、ユウイチは自分が知らない人間がいることを悟ったらしい。
眠っていたはずのユウイチが、突然吠えだした。
「…犬? あの犬か? お前、平気なのか……愚問だった」
写真に写っていた時枝の姿を見れば、平気に決まっていた。
「あの子だけだ」
「あの子? ふん、何だその仲睦まじそうな呼び方は」
勇一がリビングに近づくとユウイチの鳴き声が、一層激しくなった。
リビングのドアを開けると、入口でユウイチが小さな身体を震わせ、牙を剥き、勇一を威嚇し始めた。