秘書の嫁入り 犬(3)

羽田空港に着き、手荷物を受けとる前に、二人はトイレの個室へと駈け込んだ。
口を食べ物以外で満たし、甘くないミルクをタップリ飲んだ後、何食わぬ顔で到着ロビーへと出た時枝を待ち受けていたのは、黒瀬と潤と佐々木、それに見知らぬ若い男だった。

「時枝、何か良いことあった? 頬が上気しているけど。兄さんはスッキリした顔してますね」
「なんでお前達までいるんだ? 佐々木は呼んだが、お前達は呼んでないぞ?」

黒瀬達の出迎えに、勇一が不満げだ。

「時枝の顔を見に来たんです。センチメンタルジャーニーを終えた人間ってどんな顔しているのかと思えば、そんないやらしい顔しているとは。ふふふ、楽しいことあったのでしょうね」

たった今トイレの中でしたことが、この男にはバレているのかと、時枝が羞恥でいたたまれなくなる。

「何ですか、センチメンタルジャー二ーって? 楽しいことはありましたよ。ええ、そりゃまあ、福岡まで行ってましたし。社長が私の休暇に興味をお持ちとは知りませんでした。はい、これ、尾川さんからのお土産です」

時枝は潤に辛子明太子を渡した。

「嬉しい。ありがとうございます」
「礼なら尾川さんに言って下さい」
「時枝さん、元気そうで良かったです」

潤が明太子の箱を握りしめ、目を潤ませ、時枝を見ている。
心配を掛けたのかも知れない。

「市ノ瀬様、何か誤解をされているかもしれませんが、私は休暇前から元気ですよ」

多分勇一に別れ話を持ち出したことを潤も知っているのだろう。
実は今こうやって勇一と二人並んで立ったいること自体、時枝には恥ずかしいのだ。
自分から、そのことについて、潤や黒瀬に話すつもりはない。
言わなくても、どうせ、からかわれるのは、目に見えている。

「あと三日、まだ休暇中ですので、ゆっくりさせて頂きます。その後、またしごきますので、覚悟してなさい。新人」
「ひえ~、時枝室長って、感じ」

潤が肩を竦(すく)めた。

「もちろんです。社長も、私がいないからって、サボってないでしょうね?」
「ふふふ、もちろんちゃんとしたよ。潤がそりゃ、色々手取足取り、手伝ってくれたから」

ね、潤、と黒瀬が潤にウィンクをする。

「あなた達、それって…」

時枝の目が吊り上がる。

「おいおい、武史達はもう帰れ。休暇中の勝貴がお前達と一緒だと秘書モードになるから、おっかないだろ。月曜日には出社させるから、俺達の邪魔しないでくれよ~」

勇一は早く本宅に時枝を連れて帰りたいのだ。
こんな所で、黒瀬達と押し問答やってたら、いつになるかわからない。

「はい、はい、邪魔者は消えますよ。兄さんあまり時枝を泣かせないようにして下さい」
「組長さん、時枝さん苛めないでよ」

黒瀬も潤も勇一に念を押すと、尾川からの土産を抱え到着ロビーから消えた。

「…勝貴、俺、そんなにお前を苛めているか?」
「自覚なかったんだ~」
「逆だろ? どちらかと言えば、俺の方が…痛いッ、足踏むなって」
「それより、勇一、そこで泣き崩れている男は、佐々木さんだよな?」

黒瀬達の背後にいたはずの佐々木の姿が見えないと思っていたら、佐々木はまだそこにいたのだ。
位置が低くなっていたため、視界から消えていた。
床に膝を付き、袖で顔を擦りながら、佐々木は大泣きしていた。

「認めたくないが、うちの若頭らしい」

その大泣きしている傍らで、時枝の知らない青年が、佐々木を宥めていた。

「…うっ……、二人揃って……」
「オッサン、オッサンには俺がいる。失恋ぐらい、俺が受け止めてやるからな。もう泣くな」
「……組長と…時枝さんが…ダイダイッ…」

慰めている青年は新しい桐生の人間だろうか?
佐々木が恋愛事に弱くロマンティストであることは、桐生でも上層部では周知の事実だが、年数の短い下っ端にはもちろん知られていない。
下っ端が佐々木に容易く声を掛けることもない。
だが、佐々木はあの青年の前で号泣している。

「勇一、ありゃ、なんだ?」
「佐々木が飼っているガキだ。佐々木の家に越してきた。面白いぞ、あのガキ。佐々木を落とすんだと」
「俺がちょっと東京を離れている間に、何やら楽しいことが起きてたのか。あれ、まだ未成年じゃないのか? 親子ほど年違うだろ?」
「ま、本人達が良いなら、構わねえだろ。オイ、佐々木」

青年にしがみつき号泣を続ける佐々木に勇一が声を掛ける。