秘書の嫁入り 犬(1)

 

…全て、夢…だったのか……

 

手を繋いで寝ていたはずの勇一の姿がない。
裸のはずがパジャマではなく肌触りの良い寝巻きを着ており、そして、汚れていない布団に寝ていた。
部屋のどこにも勇一がいた形跡はない。

「…そうだよな。あんな自分に都合のいい夢があるはずがない…」

ははは、と自嘲する。
きっとこの寝巻きも、酔って寝てしまった自分に、尾川が着せてくれたのだろう。

「…あの電話も夢か? だとしたら、この身体の違和感は…俺…尾川さんと?」

もうこれで勇一と二度と顔をあわすことができない、と時枝の心が沈む。
他の男と寝た自分を、勇一が許すはずがない。

「…新婚旅行か。どうせ夢なら行きたかったな~。どこがいいかな。どこでもいい。勇一と二人なら…」
「アフリカでも行くか?」
「…勇一っ! お前、どこからっ! 本物か?」

寝ている時枝を、服を着た勇一が上から覗き込んできた。

「買い物してきた。起こしたら悪いかなと静かに上がってきたら、お前が泣きそうな声でブツブツ言ってたんで、いつまで続くのかと様子見てた。勝貴、尾川さんとヤッたのか? それなら、俺にも…」

目を釣り上げ、勇一が時枝を睨む。
どこまでが夢でどこからか現実か曖昧で、時枝は即答できなかった。
ただ、尾川とどうにかなった記憶はない。
誘った記憶はあるが。

「オイオイ、泣きそうな顔するなよ。冗談だ。勝手に俺のこと夢にして。朝一で福岡まで来たのに、それはあんまりだろ?」
「勇一、いなかったし、布団は新しくなっているし、寝巻き着てるし…」
「全部、俺がしたの。身体を拭き上げて、汚れた布団は処分して、新しい布団を手配して、そして、最後にこれだ」

勇一が買い物袋を提げていた。

「薬。鎮痛剤と軟膏買ってきた。手当てしてやるからケツ出せ」
「…自分で出来る」
「俺がする。俺が傷付けたんだから、俺にやらせろ」
「自分のことは自分でやる」
「駄目だ」

勇一は時枝の布団を剥ぐと、時枝を転がし、腰を上に向けると、寝巻きを腰まで捲った。

「勇一ッ、」
「いいから、いいから。中は自分じゃ塗りにくいだろ? 任せとけ、俺さまのフィンガーテクを信じなさい」

勇一が軟膏を塗り始めた。

「…塗るだけにしとけよ。変なこと、するなよ…」
「変なことって何かな? こういうこと?」
「ひぇっ!」

勇一が軟膏を塗っていた指を腫れた入口から滑り込ませると、弱い部分を擦った。

「バカヤロッ、そこは関係ないだろっ!」
「おっと、手が滑った。許せ」

絶対わざとだ、と時枝は勇一の方を振り返り、睨んだ。
その後は、変な悪戯(いたずら)をされることもなく、患部の手当だけを施された。

「この腰じゃ、辛いと思うが、夕方の便で東京に戻ろう」
「ああ。今日は何曜日だ」
「木曜だ」
「じゃあ、あと三日は休暇が残っている」
「よし、じゃあ本宅で過ごせよ。いいだろ?」
「そうだな…たまにはそれもいいか」

二人の逢瀬は、時枝の部屋が定番だった。
しかし、勇一が本気で自分との将来を考えているのなら、徐々に桐生組の関係者にも二人の関係を認めていってもらわねばならない。

「嫌だと言われても、強引に連れて行こうかと思ってた。決まりだ」

鎮痛剤で痛みが治まると、時枝は東京に戻る準備を始めた。
身支度を済ませ、勇一と共に下に降りると、尾川が笑顔で迎えてくれた。
自分の情けない姿を見られているだけに、顔を合わせるのが恥ずかしかったが、海の男は温かく迎えてくれた。

「尾川さん、本当にお世話になりました。あと、その…えっと…勇一が、無茶するから…ですね…」
「ちょっと仲直りする際、布団を汚してしまったんで新しいのと替えさせてもらった。気に入らなかったら違うのを手配するから遠慮なく言ってくれ。勝貴も、酷いよな。俺のせいにするなよ。勝貴だって悦んでいたくせに」

バカッと、時枝が勇一の足を踏んだ。

「ハハハハハ。昨日とは別人だ。良かった良かった。時枝さんもこれから大変だろうけど、潤のように、ここを実家代わりに使ってくれ。辛い時や不満があるとき、ココに来て吐き出せばいいさ。愚痴くらい聞いてやるから。変な場所をウロウロするより、安心だろう? な、桐生さん」
「よろしくお願いします」

勇一が即答した。
尾川が信頼に足る人間だということは、重々承知していた。
親兄弟もいない時枝には、今まで桐生が実家のようなものだった。
これから桐生と今まで以上に深く繋がっていく勝貴を思えば、桐生と違ってホッと力を抜ける場所があっても良いだろうと勇一は考えた。
時枝も感じたことだが、この海の男の普通の感覚は、物事の違う見方を教えてくれる。