「自分が出来てないことがあると自覚しているなら、なんでも学習しなさい。ミスはミスとして素直に認め、先輩社員や上司を年寄り扱いするのは止めなさい。時代が違うってなんですか。話しになりません。若いから知らないことはあって当然ですが、それを開き直るなんて、言語同断です」
「…申し訳ございません」
「反省しているなら、明日までに、筆記体の大文字と小文字を覚えてくるように。早朝、他の社員の出社前に、テストをします。いいですね?」
「はい。ありがとうございます」
はあ、と深い溜息を漏らし、時枝は腕時計を見た。
自分も黒瀬と共に会議に出席しないとならない。
「時枝、血圧が上がるからリラックスして。市ノ瀬潤、ちょっとこちらへ」
社長室から、黒瀬が顔を覗かせる。
内線使って、盗聴していたのは間違いない。
黒瀬が甘やかすから潤が成長しないと、時枝は思っていた。
「はい、社長」
ドアで姿が隠れる所まで潤を招き入れ、黒瀬が咄嗟に潤にキスをする。
「っん!」
キスをされたつもりだった潤が目を白黒させている。
口の中に丸い物が押し込まれていた。
「ふふ、甘いモノ舐めるとリラックス出来るよ。午後からの仕事も頑張って」
秘書課の他の社員に聞こえないよう、黒瀬が潤の耳元で囁く。
「それと、帰ったら私が今日は家庭教師をしてあげるからね。先生と呼んでね。そうだ、眼鏡を帰りに買って帰ろう。時枝みたいにフレームが細いのがいいかな? こわ~い、先生になって、明日の筆記体のテスト百点取らせてあげます。出来が悪かったら、お仕置きっていうのもアリかも…楽しくなってきた」
時枝に叱られたことが、黒瀬にばれていた。
潤は恥ずかしくて、顔を赤らめた。
「黒瀬~…、楽しくはない…出来の悪い社員でごめんなさい」
小声で潤が謝る。
「いいから、それ舐めて、元気出して」
潤の額にチュッと唇と付けると、黒瀬はドアを大きく開けた。
「行きなさい」と潤を戻すと、自分も社長室から出た。
「時枝、グズグズしてないで、会議に行くよ」
『誰がグスグスしてるって?』と胸の中で悪態を付きながら、秘書の顔で、
「はい、社長」
と返事だけし、二人揃って会議室Bではなく、Dへ向かった。
秘書室を出て会議室への道すがら、二人の問答が始まった。
「ったく、直ぐに甘やかす。どうせ、盗聴してたんでしょ」
「ムチだけじゃ、育たないだろ? ふふ、ちゃんと飴玉を咥えさせておいたから」
「意味が違うでしょ、意味が!」
「それにしても、社内のメモに筆記体使うヤツもいるとは、潤もいい迷惑だ」
「それも、違うでしょ! 筆記体って言うぐらいですから、手書きで使用されていても、文句は言えないはずです。普通の社員ならまだしも、彼は英語が堪能じゃないですか。なのに、筆記体が読めないって、あり得ません」
「ふふ、ムキになるのは、時代が違うって言われたからじゃないの? しょうがないよ。潤や若い社員からみたら、時枝は既に疲れた中年男だから。そろそろ、嫁にもらってもらわないと、行き遅れるよ」
時枝の足が止まる。
「どうした?」
「あの、社長? 社長は私に嫁に行けと仰有るのですか?」
こいつはバカか? と時枝はこの時本気で思った。
「行かないの?」
「当たり前でしょっ! 俺は男ですっ!」
「潤も男だけど、俺の嫁になった」
時枝の頭に白いブーケを持ち、純白のウエディング姿の自分が浮かび上がった。
「それとこれとは、」
「同じだろ? 早く嫁に行かないと、本当にカラカラになるかも。やはり、そういう事って人生を潤すから。時枝がカラカラだと、潤がいびられそうで、俺も仕事に集中できないし」
嫁に行かなくても、俺の人生は十分潤っているっ!
と啖呵を切りたいのは山々だったが、実際、前回の熱い逢瀬以来、干上がった砂漠状態が続いていた。
変に前回が濃かった為、その反動で飢餓感が強く、イラっと来ることも多い。
「社長、低脳な会話はこのぐらいにしましょう。もう、皆さん、揃っているはずですから」
「潤が間違えた資料も、だろ?」
「そのはずです。会議室Dへ急ぎますよ」
重役と支社長が集まった重苦しい空気の会議室へ、社長の威厳を一秒で纏った黒瀬と共に、時枝は足を踏み入れた。