秘書の嫁入り 青い鳥(18)

「新人っ! 会議室へ資料が届いてませんよ。至急、届けて下さい」
「室長、そんなはずはありません。確かに届けました」
「届いていません。たった今、青柳君から、内線で連絡がありました」

自分でもイライラしてるのが分かる。
出来の悪い新人、市ノ瀬潤を叱る口調に私情が交じっている自覚が時枝にはあった。
というのも勇一との久しぶりの逢瀬から、はや一ヶ月。 
また時間に追われる日々で、あれから一度も会ってない。

「確かに昼休み前に、会議室へ三〇部持って行きました」
「資料が勝手に消えたとでも? そう言いたいのですか、新人?」
「市ノ瀬です。いい加減、名前で呼んで下さい」

毎度毎度叱られ続けると、お小言に対する免疫が潤にもできてきたのか、最近は涙することもない。
泣けば追い出すと脅しをかけられているので、泣けないというのもあるのだが。
イラついているせいか、名前を呼べという潤の尤もな要求も、時枝にはただの反抗に聞こえていた。

「子どものおつかい程度のことも満足に出来ない社員を名前で呼ぶ必要はないでしょ」
「俺は、持って行きましたっ!」

ギロっと、時枝が潤を睨む。

「私は、…ですけど……」
「はぁ~、全く、教育のし甲斐がないというか、何というか……。新人、一つ伺いますが、どの会議室に持って行ったのですか?」
「もちろん、Bです」
「B? 新人は、会議室Bに、資料を持って行ったと? 間違いありませんね?」
「間違いありません。私はBに運びました」
「それでは、届かないはずです。よ~く分かりました。やはり、市ノ瀬潤、君のミスです」
「どうしてですか、Bに届けろと、メモしてありました」
「Dです。会議室Dです。メモを見せなさい」

自分に非はないという態度で、潤が時枝にメモを渡した。

「新人は、確か英語は出来てましたよね。ネイティブとは言いませんが、近いものがある。違いますか?」
「…はい、自信はあります」

潤は、母親の教育方針で、子どもの頃から英語だけは叩き込めれていた。
それには、潤の出生の秘密も多いに絡んでいた。

「父親は、イギリス紳士ですよね?」

時枝のこの言葉に、周囲の秘書達が『市ノ瀬君って、ハーフだったの?』とヒソヒソ話を始めた。
見えないのだ。
確かに色は白いし髪の色は薄いが、潤程度なら珍しくない。
社長の黒瀬は、一目で潤には外国の血が入っていると見抜いていたが、普通は思わないだろう。
本人も、ずっと自分は純国産と思って成人したのだ。
知らされたのは、潤と黒瀬が知り合うキッカケになった、一年数ヶ月前のイギリス滞在の時だった。
母親の結婚式に出席するため、イギリスのカーディフを訪れた際、母親から出生の秘密を聞かされたのだ。

「はい、そうですけど。それが、何か?」
「これ、筆記体で書かれたDです」

時枝がメモに書かれたアルファベットを指さす。

「…筆記体って…、まさか…」
「知ってますよね、筆記体のDぐらい。昨今筆記体はあまり使われませんが、それでも、メニュー等はレタリングされた筆記体が使われてますし」

先輩秘書の篠崎が、助け船を出そうかどうしようか、迷っていた。

「…まさか、社内で…乱暴に書かれたBかと…だって、オッパイが二つ…」
「オッパイ? 新人、オッパイって言いました?」
「Bは寝せると垂れたオッパイみたいな形です。この文字もオッパイ二つあるじゃないですか…寄ってますけど…」

助け船を出そうとした篠崎も、他の秘書達も、皆、笑いたいのを堪(こら)え、震えていた。

「このスペースのことを言っているのですか?」

書かれた文字の上の円を描いている部分が、本来の筆記体のDより多少大きい。
が、それでも筆記体のDを知っているなら気付くはずだ。
決してBと間違ったりしない。

「室長、早く青柳さんに資料の在りかを報告した方がいいのでは? そろそろ、会議も始まる時間ですし」
「そうでした。篠崎さん、悪いが青柳君に連絡を入れて下さい」
「かしこまりました」

解放されると思った潤だったが、まだまだ、時枝のお小言は続くらしい。

「いい年して、オッパイが二つなどという、訳の判らない、いい訳をするなんて、どういうつもりですか?」
「…筆記体、習っていません…」

ボソッと潤が洩らした。

「習ってない?」

時枝の右眉が跳ね上がる。

「メニューは時枝室長が仰有ったように、レタリングされているから、逆に読めるのです。手書きの筆記体は癖があるので、読めません。書くのも無理です。時枝室長の学生の頃は英語は学校でも筆記体だったと存じてますが、私の時代は違います。学校でも習ってないし……まだ、メニューが読めるだけでも、マシな方だと思います」

潤の言葉に、時枝は込み上げてくるイラつきを押さえ込んだ。
ここはちゃんと言わなくては駄目だろう。
感情的に言っても伝わらないと判断した。

「だから、ミスは新人のせいではないと、言いたいのですか? 時代は関係ないでしょ。君は先々誰の専属秘書になりたいのです。誰の右腕になりたいのです。仕事のバックボーンについての研究はしていますか? それに必要な知識を得ようと努力していますか? 普通に与えられた仕事をこなせれば十分と思っているのですか?」

時枝は遠回しに裏の仕事のことを言っていた。

「思って…いません」

潤が、シュンと下を向いた。
会社とは別に、黒瀬と時枝は盗品売買も手がけている。 
もちろん、こちらは非合法だ。
それについては潤も知っているし、そちらの仕事の手伝いもしたいと思っている。
黒瀬と潤が知り合った時も、黒瀬と時枝は裏の仕事で、イギリス行きの機内にいたのだ。
海外との取引が多くなるし、意外と手書きレターのやりとりもある。
タイプやパソコンのやりとりでは、裏を取られることもあるので、特に慎重にコトを勧めたい時は、手書きのレターが用いられるのだ。