その男、激情!112

「ふふ、一緒に逃避行中かもね。あの人、自分が気付いてないだけで、お猿が好きなんじゃないの? 橋爪になるとその隠れた欲望が現われるとか? 時枝は殺したくなるけど、お猿は裸に剥きたくなるみたいだし。今頃、どこで何をしているやら」
「ええ、そうですね」

時枝のこめかみが、ピクッと青筋をたて撓るのを潤は見逃さなかった。

「そう辺は、私もジックリ問い詰めてみたい箇所です」

この分だと、勇一が戻ってきたら、間違いなく一騒動あるだろうと潤は思った。

「すぐに、姿を現わすんじゃない? 殺しに来るのか、時枝を犯しに来るのかは分からないけど。ふふ、橋爪でも時枝の身体には興味持ったみたいだし…凄かったよね、病室であの人。白目剥いた時枝でも腰を振り続けていたから。ふふ、時枝で覚えた味が忘れられなくて、今頃お猿の赤いお尻で遊んでたりして」
「そんなこと、許しませんっ! もし、本当にそんなことが起こっていたならば、私がこの手で勇一の息の根を止めます。第一、大森と佐々木さんに申し訳がたたない―――佐々木さんは? 大森が一緒なら大騒ぎしているはずじゃ?」

車椅子を動かしドアを開け、本宅内の様子を時枝が窺う。
静かだった。
その瞬間は静寂していた。
が、ドアを閉めようとした瞬間、聞き覚えのあるサイレンの音が飛び込んで来た。

「近くで事故でしょうか?」

本宅を通り過ぎると思われた音が、ピタッと止まった。

「木村さんが、呼んだのかも」
「ふふ、じゃあ、ゴリラ、やっぱり死んじゃった?」
「死んでると判断したら、木村さんなら通夜の手配するんじゃない? 俺が救急車か通夜って言ったんだけど、――…本宅に救急車って大丈夫なの?」
「どういうことですか? もちろん、大丈夫じゃありません。また何かあったと他の組に腹を探られる。私に分かるように説明して下さい」

車椅子の時枝が、怪訝そうに二人に詰め寄った。

「さあね。何があったかは知らない」

確かに、正確には、潤も黒瀬も何が佐々木の身の上に起きたのかは知らない。
音を聞いただけだ。
黒瀬が説明する気がないと知ると、時枝は潤に絞って問い詰めた。

「潤さま、あなたが木村に救急車を勧めたのなら、その理由があるはずです。それは何ですか?」

秘書室長時代の時枝を思わせる、鋭い眼光で睨まれ、潤は懐かしい緊張感に見舞われていた。

「――それは、佐々木さんの所に寄ったら玄関先で凄い音がして、…多分、慌ててて躓いたか何かで、頭を玄関の扉で激しく打ったんじゃないかと。その後、倒れたような音が聞こえて、結局佐々木さんは出てこなかったから、意識がないと思う。でも、黒瀬の言うように、実際、玄関が開かなかったので、何があったかは正確には分からない…です」

最後だけ、丁寧な語尾を付け足した。
新人と時枝に呼ばれ続けた日々が、潤に蘇った為だ。

「確かに、それだと医者が必要かもしれませんね。ただ、桐生の医務室でも事足りた気がしますが。――はあ、既に来てしまったものは仕方ありませんね」

と、時枝が窓の外に顔を向けると、担架で佐々木が運ばれているのが見えた。
救急隊員を一緒に木村もいた。

「まさか、木村まで救急車に乗り込むつもりじゃないでしょうね。勇一が不在、佐々木が病院、となると、誰が組をまとめるんですか。まったく、木村も、もう少し思慮深くてもいいと思いますが。――仕方ありませんね」

クルッと車椅子ごと向きを変え、時枝が黒瀬を見据えた。

「橋爪のアホを、桐生組で――私のこの手で、捕らえます。私の命も狙ってくるでしょうし、何より大森を一刻も早くあのアホから解放しないと。私を桐生の事務所に連れて行って下さい。佐々木さんがいないのなら、私が組長に復帰します。あんなヘボい殺し屋にやられてばかりじゃいられませんから」
「時枝さん…うそぉぅ、時枝さんが橋爪を殺すのっ!?」

驚愕の潤に、ゴホンと時枝がわざとらしく咳払いを向けた。

「誰も殺すとは言ってませんが? 勇一でも橋爪でも、どちらも同じ事です。あのアホがバカな事をしでかすなら、徹底的にその性根をたたき直してやろうという深い愛情と、桐生の組の面子の問題です」
「――アホがバカな事、って、…確かにそうだけど…」

自分が言うのはいいが、他人に言われるのは面白くない。
時枝がムッとして潤を睨んだ。
潤を庇うように、黒瀬が口を挟んだ。

「ふふ、深い愛情ね。どちらかと言えば、深い嫉妬だと思うけど。それに、時枝、ついさっき、殺すって言ってたじゃない。この手で息の根を止めるって」
「それはっ、あのアホが大森相手にしでかした時ですっ。そうなる前になんとしてでも、アホを捕らえて、二人を引き離せばならないでしょっ! 早く、出ましょうっ!」
「ふふ、桐生の面子は関係ないじゃない。結局は、怨念タップリのジェラシーじゃない」
「何を言ってるんですか! 社長ともあろう方が。ヘボい殺し屋に舐められていたら、それこそ他の組から見てどう思われるか。橋爪の正体が既に他に洩れているとしたら、桐生の内紛として、つけ込む好機到来と思われかねない。嫉妬も否定しませんが、私個人の感情だけの問題でもないでしょ。第一、大森は、まだ一般人ですよ。一般人を巻き込んでいいわけがない。なんとしても彼を無事に保護しなければ……。佐々木さんになんて言い訳するんですかっ」
「ふふ、結局ソコに行きつくんだから。まあ、でも、時枝の言うことは、珍しく正解。時枝が組長復帰して、指揮を執るのが一番」 
 
潤に、行こうか、と促し黒瀬がスタスタと歩き出した。 
車椅子を押してやるようなことはしない。
もちろん、そんなこと、時枝も期待していない。
潤が車椅子に手を掛けたが、時枝が、結構です、と断った。
必要なのは自分を甘やかす手伝いではなく、目的達成の為の補助だけだった。
そう車で運んでもらえれば、時枝には十分だった。