秘書の嫁入り 夢(4)

勇一が佐々木を天国へ誘って、いや、地獄に落としてルミと身体を使った大人の遊びに、半ば自棄クソで興じている頃、とある一室では、時枝が「ユウイチ」と格闘していた。

「…ひぃっ、…啼かないで…くださいっ!」

ゲージの中のユウイチがキャンキャンと吠えている。

「…ええ…、お腹が空いているのでしょ? …今、なんとか、しますから……」

ユウイチに罪もないし、時枝を脅したくて啼いているわけでもないのは、時枝だって重々承知だ。
小動物相手に身の危険を感じる方がおかしいのだ。
だが、動物が牙を剥き、本能そのままに嬲(なぶ)られた記憶もおぞましい感覚も、簡単に拭いきれる類の物ではなかった。 
震えだけで済んでいるから、これでも少しはマシな方だ。
一生消えないトラウマだろう。
しかし、黒瀬だって潤だって、トラウマを抱え生きている。
勇一だって、自分のせいで心に負った傷は深いはずだ。 
消えないトラウマを無理に消そうとしても無駄だ。
抱え、生きていける強さを身に付けるしかないのだ。
何かあるかもしれない、と時枝がキッチンへ向う。
潤が用意してくれていたのか、ドッグフードの袋が置いてあった。
皿に少し取ると、ユウイチの元に戻る。
問題はどうやって、これをユウイチに与えるかだ。
ゲージの蓋を開けて皿を中に入れてやればいいだけのことなのだが、ゲージの中に手を入れる勇気がない。
もし、開けた瞬間に、飛びかかられでもしたら、それこそ泡を噴いてしまいそうだ。
匂いがするのか、見て餌だと分かるのか、ユウイチの鳴き声が一層激しくなる。
ゲージの前に皿を置く。
知恵を絞って食べてくれ、と時枝が祈るが……そんなこと出来るわけがない。
ユウイチは可哀想に、目の前に餌があるというのに、お預けをくらった状態だ。
ユウイチが狂ったようにゲージの中でクルクルと回っては吠え、回っては吠え、時枝を責めるように睨み付けていた。
そうだ、と時枝がまたキッチンへ行く。
菜箸を手に戻って来た。
長い菜箸でドッグフードを摘み、ユウイチの口元へ持っていく作戦に出た。
一粒摘み、ゲージの隙間からユウイチの口へ腕だけ伸ばし、運ぶ。
最初の三回はゲージに届く前に下に落ちた。
次の五回はゲージの中に菜箸が入った瞬間にユウイチの待てないという吠えに時枝の手が震え、落としてしまった。
そして、やっとユウイチの口元に届いた時、喜び過ぎたユウイチが口を開けた瞬間、ユウイチの息で落ちた。
時枝も汗だくで取り組んだが、ユウイチはもう我慢の限界だった。
見せられただけではなく、目の前まで届いているのに食べられない。
ゲージの中で落ちた粒は、ゲージの隙間に嵌り、前足で掻き出そうとしても取れず、ユウイチのフラストレーションは限界値に達していた。

「ウゥ~~~~! グ~~~ッ!」

子犬らしからぬ唸り声を上げ、時枝を威嚇(いかく)し始めた。 
小さな牙も見せ、早く餌を寄越せと、時枝を脅し始めた。 
もはや、時枝を、自分を苛める敵だとユウイチは思っているらしい。
とはいえ、普通の人間からみたら、子犬の威嚇なんぞ可愛いものだ。

「…落ちついて…、下さいっ、…ユウイチ…良い子は…吠えない…し、人間を泣かせたりしないんです……」

しかし今の時枝が可愛いと感じるわけもなく、冷や汗を垂らし、なんとか威嚇をやめさせようと子犬相手に説得を始めた。
そんなもの、子犬が理解するはずもない。

「ウッ、キャンッ、グ~~~~~~~ッ、ウゥ~~~ッ、」

ユウイチだって必死なのだ。
威嚇だけでは餌が貰えないと判断したのか、今度は狭いゲージ内で暴れだし、ゲージに体当たりを始めた。

「…ユウイチッ、…怪我しますよっ…、あぁあ、ゲージが壊れてしまう……ユウイチッ、落ち着いてっ、話せば分かる! あなた、賢いんでしょっ! …吠えないでっ、…ゆっくり、話し合いましょッ!」

本人は必死なのである。
別に笑いを取ろうとしているのではない。
だが三十四にもなろう男が、子犬相手に「話せばわかる」と説き伏せている姿は、悲しいぐらい滑稽だった。
この様子を盗み聞き、いや、盗み見している二人がいた。 
時枝を迎えにいく前に黒瀬が小型カメラを部屋の死角に取り付けていたのだ。
一応名目は、精神的に不安定な時枝の様子が心配だから、ということだったが……